住みたい所は清んでいる

うちにくる方とよく話すのが、東京都内だと住みたい、ピンとくる場所が少ないということです。

 

 

神奈川だと海は鎌倉方面、山は丹沢方面と自然も豊富で、ちょっと外れると畑が広がっていたりします。

 

 

先日、敏感な方に「都内で電磁波の強いエリアは、電磁波が頭から入って足から抜けていくのを感じる」と言ったら、同じ感覚を持っているようでした。

 

 

外を歩いていて急に胸膜が固くなったりすることがありますが、チェックすると放射能や空気中の化学物質だったり、人の感情だったりします。

 

 

施術していて、電磁波や放射能、化学物質の影響が大きい方ほどそれに無自覚で、それらの反応を消すと

 

「こんなに違うんですね!」

 

と驚かれてることがよくあります。

 

 

電磁波については携帯電話をサンプルに使えるので、携帯電話を胸に置くと体が硬直したり、力が抜けてしまうのを体感してもらい、電磁波の反応を消してからもう一度チェックすると問題なく力が入るようになります。

 

 

「電磁波や放射能を浴びれば浴びるほど健康になる」

 

 

とどこかに設定できればいいんだけどな~ということをいつも考えています。

赤ちゃんの施術

何百人とからだに触れていくと、身体が治癒する力が旺盛な方、筋張って液が流れていないような、自己治癒する力が弱い方、施術を受け入れる準備ができていない方など、色んな感じのからだがあると感じます。

施術を受け入れる準備ができていない方などは、いろんなタイプがあると思いますが、最低限紹介者にぼくがどういったことをするのか聞いていたり、このブログでも読んでおいてもらえばいいと思います。

ヒトも動物ですから、これから何をされるかわからないという時は、心も肉体も警戒して、施術の効果が出ないということにもなりかねません。

初回の方は、なるべく時間をとってどういったことをするか話すようにはしています。

痛みの気になる方には、うちは痛みを直接とるのではなく、まずバランスをとっていくことをするので、何回か受ける余裕を持ってもらうということを伝えたりします。

術者が痛みをとることに執着すると、バランスの崩れに意識がいかないので、痛みが徐々に戻ってきたりします。

1日に7,8人くらいは施術するので、痛みをとることを追究していたらかなり消耗しますね。

すんなり反応する方を施術する時は、

「うちに丁度施術を受けに来るタイミングだったんだなぁ」

と思います(笑)

こういった方からは、こっちも閃きや気付きを貰うことが多いです。

昨日は数か月ぶりに乳児(生後1か月)の施術をしました。

そういえば、最近は不妊で施術に来る方は多いけど妊娠で来る方が少ないなと感じました。

これから妊娠しそうな方は何人かいますが。

昨日みた子は、生まれてから常に右向きという赤ちゃんでした。

赤ちゃんというのは敏感なので、間違ったことをしようとすると抵抗します。

頭蓋に制限を感じたので、検査からしようと思ったのですが、胸郭からやってほしいようで、胸郭をじっくりやりました。

左胸郭に強い制限があり、胎児期3か月の物理的な衝撃が反応しました。

お母さんに聞くと、妊娠3か月の頃に自転車で転んで腹を打ってしまったとのことでした。

その時の衝撃を取り除き、胸郭に柔らかさが出て呼吸が安定してくると、次に、胎児期3-5か月のスパンで「不安感」「悲しみ」などが反応したので解放を始めると、かなり強い感情が左胸郭から噴出し始めました。

その頃は色々大変なことが続いたとのことでした。

胸郭の反応がだいぶ落ち着くと、表情が軽い感じになりました。

ご家族の話では「普段よく悲しそうな顔をする」とのことでした。

常に右抜きだったのが、胸郭のねじれがとれた影響か、上向きになったりすることが増えてました。

胸郭を充分に解放して、頭蓋をやりたかったですが、頭蓋はまだ触らせてくれませんでした。

呼吸が浅かったのと、鳴き声が肚から出ていなかったんですが、呼吸はゆったりし、帰り際には鳴き声に力が出始めました。

凄くエネルギッシュな子でした。赤ちゃんはまだ神みたいなもので、大したことをしなくても勝手に身体が調整されていくんですが、胸郭の感情は中々強力でしたね、、、

産まれてすぐにこういった処置をしておくと、育ってから大きな問題が出にくくなると思います。

小児喘息がひどかったという方は、酸素に対する耐性が低かったりするんですが、小児喘息がひどかった方は、胎児期の問題が出る割合が高いと感じます。

産まれてくる子は、腹の中でも色々感じていますから、胎教というのは大事だなとつくづく思います。

乳児の施術は、お母さんが施術を受けている場合は無料でやっています。

カポエイラとアフリカの秘術

先日の火傷ですが、ケロイド状になり、跡が残るのではないかというくらい酷かったんですが、山下さんが扱っているアフリカの秘術(シアバター)のお陰か、短期間で劇的に回復しました。

 

 

写真を撮っておけばよかったと悔やまれます。

 

 

アフリカの秘術を扱っている山下さんはこれからメンバーとしても加わります。

 

 

サラ金でバリバリ働きながらカポエイラの鍛錬にも熱心で、ユニークなアフリカ雑貨を扱う女性です(ゴリラ好きです)。

 

 

施術も非常に筋がよく、基本的な施術方法を難なくものにしました。

 

 

武術などの経験者は手技の感覚を掴むのが早いんですが、カポエイラで鍛えてきた体捌きの影響かも知れませんね。

 

 

既に周りの方々に施術して興味深い臨床報告も頂いています。

 

 

フィジカルなケアをしっかりしていきたい方々は山下さんお勧めです!

 

 

将来的に店舗を出すことになったら、外から見たら雑貨屋にしか見えないような雑貨まみれの、セルフドリンク併設の、施術がメインなのに施術はついでくらいの、わけのわからない空間にしたいなという願望があります。

楽しいことをする

何をやっていても、楽しいということが本質に繋がると思っています。

 

やっていることが楽しくなければ、どこか不調和が生じているということになります。

 

 

自分の経験からいっても、嫌々やっていることの中から創造的なことが生まれるということはありません。

 

 

名の知れた物理学者、数学者で、自分のやっていることが嫌で嫌でしょうがなかったという人はいません。

 

 

好きなふりをしてやっていることはすぐにボロが出ます。

 

 

ある対談で、蟻の巣に間違って運ばれたゴミムシが、巣が壊される緊急事態になると普段と違う行動をしてしまい、蟻に攻撃されるという話がありました。

 

 

自分の本質から外れた不自然なことをし続けていると、そのうち不具合が出てくるのかも知れません。そういった時に、自分の本質や使命といったものを意識するようになるのでしょう。

 

 

好きなことということは、自分の本質に繋がる要素を持っていると思います。

 

 

自分の感覚にしっくりくること、やっていて楽しいことにアンテナを張っていれば、自然に自分の本質、使命を自覚するに至ります。

 

適者生存、突然変異

生まれたばかりの眼や耳が発達していないネズミを親元から離してまた戻すということを繰り返すと、臆病で神経質なネズミになり、このネズミが子供を育てると子供も同じように育ち、孫もそうなるという、トラウマの継承があります。

 

 

この考え方でいけば、例えば親に海馬や扁桃体の委縮があるなら、その器質は子供にも引き継がれるということになるかもしれません。

 

 

親子でよくみられるのが同調現象で、これはミラーニューロンの作用によるものだと思っています。例えば母親が腹の調子が悪いという時に子供も腹の調子が悪いという現象ですが。

 

 

これとは別に、記憶やトラウマの問題をみていくと親子そろって同じ問題が出てくるということがあります。

 

 

中国で手足の指が10本ずつの母親の子供も10本ずつの足で生まれて来たという写真がありました。

 

 

アウストラロピテクスからホモサピエンスまでの進化の過程で、例えばクロマニヨンからホモサピエンスまでの進化の繫ぎ目というのは見つかっておらず、ミッシングリンクというようですが、キリンも急に頸の長いものが出てくるようで、中途半端な長さのものというのは見つかっていないようです。

 

 

進化とは突然変異ではないかと思っていて、環境の必要性から生じた変位をもった主体がそのまま生き残ってきたんでしょう。

 

 

今、電磁波や放射能、化学物質が飛び交う中で、こういったものに対する耐性を持つ個体が増えていくかもしれません。

 

 

悪化していく環境に耐えられなくなった個体から消えていくのでしょう。

 

 

耐性を付けられない個体は身体を麻痺させるしかなく、身体の防衛本能が正常に働いていて、ひどい環境に適応できない個体は、安全圏へ移っていくでしょう。

 

 

 

 

先日上野で見て来た発生学の展示に本物のキリンの骨がありましたが、あんなに巨大で頸椎が7椎あるんですね。あんな巨大なのが突然変異で出てきたんだとしたら凄いことです。

勁(連動力)と軸

先日、ちょっとした健康法?の会をやりましたが、反応がよかったのと、定期的にやった方が身に付く内容なので、また近々やろうと思います。

 

 

先日は勁ということと体軸ということでやりました。

 

 

ぼく自身、まだまだ探究しがいのある分野ですが、勁や体軸の感覚はそのまま臨床に活用されている感覚です。

 

 

勁は、身体を連動して発せられる力で、武術ではこの感覚を掴むためにひたすら基本功法をやります。

 

 

スノボーのインストラクターをやっていたN君は、スノボーの練習で似たようなことをやると言っていました。

 

 

中国武術では特に大腰筋が重視されていて、これは大腰筋と言われる前から直観的に感じられてきたものだと思います。

 

 

気功では大腰筋に沿って大きい気道、気の通り道があるとしていて、大腰筋は仙骨、下丹田とも直接関係します。

 

 

太極拳の師匠は、仙骨が動くようになると色んなことができるようになると言っていました。

 

 

中国の仙人は、仙人候補を選ぶときに骨格のある場所を見て選ぶということですが、これは仙骨ではないかと言われています。仙骨自体、英語ではラテン語のsacramからきているので、「聖なる」骨という意味です。

 

 

太極拳の師匠は、金的が効かなかったり身体中ハンマーで叩かれても平気だったりしますが、全身連動して勁が通った後、衛気が流れるようになり、筋肉がゴムのようになるようです。

 

 

太極拳では最初大きく動き、小さい動きになっていくんですが、これは最初大きく動かして勁の感覚を掴み、小さく動かしても勁の感覚が掴めるように練習していくということのようです。

 

 

勁の感覚は武術を始めた当初は全くわかりませんでしたが、しばらくして何となく感じるようになり、それから基本功が面白くなりました。臨床では、受け手の身体と自分の身体を繋ぐという感覚、受け手の身体を連動でみていくことに役立っています。

 

 

軸の感覚も基本功で掴んでいきますが、施術していて軸の感覚は重要で、軸が弱いと、受け手の歪みに持っていかれたり、リリースに時間がかかったりします。

 

軸の感覚があれば、人に影響されることを回避できたり、程よい間合いを図ることができたりします。

 

 

これらは一生探究できる感覚です。ぼくもまだまだ磨いていきたい感覚ですね!

 

仕事と好奇心

ここのところ仕事を辞めたという人が多いです。何かを辞めたり、関係を変えたりする時期みたいですね。

 

 

やりたくない仕事をやり続けるというのは拷問に近く、より生きがいを感じる仕事を探すということは自然な欲求だと思いますが、中々自分に合った仕事が見つからないという人が多いです。

 

ぼくがこの仕事を選ぶとき基準にしたのは、

①日本に限らずどこでもできる

②外的環境にあまり左右されない

③震災など非常時でもできること

④どの時代でもあった仕事

 

これでした。手技の歴史は古く、どんな文明でもどの時代でもやってきたことで、これほど普遍的な仕事というのはあとは料理人、産婆、医者、売春あたりが筆頭でしょうか。

 

 

本当に極限の状況、震災で東京が瓦礫に化したり、仮に日本が無くなっても、手技や療法を身に付けていればどこでもやっていけるし、昔の武術家みたいに施術した代わりに寝る場所と食べる物を貰うということもできます。

 

 

普段施術していても、そうなるイメージはいつも頭の片隅にあります。この仕事をしていてこの先も日本に留まり続けるということが不自然だとすら思うこともあります。

 

 

就活すらしたことがないぼくがいうのも変ですが(唯一積極的にやった仕事は身体の使い方の参考になった引っ越しや倉庫の仕事でした)、自分にあった仕事が見つからないというのは、自分がどんな特性を持っているか明確に把握していない、自分に合った情報を捉えるアンテナが弱い、探究することがはっきりしていない、など色々言うことができるかもしれません。

 

 

自分自身この仕事を見つけたのは運が良かったんだと感じているので、全てはタイミングと運だという話になりそうです。

 

 

一方で、今までしてきたこと、関心などから考えると、必然的な流れも感じます。

 

 

探究ということに絞ってみていくと、人間が何故生まれてくるかと考えると誰も検証できないし答えは出ないと思いますが、生物は遺伝子が獲得した情報を次の世代に伝えていくということがあります。

 

 

人間は生まれながらに好奇心旺盛で、探究したいという欲求は根源的なものだと思います。

 

 

だから、何を探究したいのかはっきりすれば、探究する為の媒体は定まってくるはずです。

 

 

どんな仕事でも、それによって何がしかの探究ができていればいいと思います。

 

 

ぼくは臨床を介して自然法則と、それによる動きを探究していると思っています。

 

野口晴哉は、自然法則を知るために株をやり、一通り儲かった後に「わかった」といってきっぱり止めたようです。

 

探究する媒体は変わっていってもいいと思います。

 

 

今は臨床を通して自然の探究をしていますが、前は神秘思想や宗教を参考にしていました。

 

 

文字言語で自然法則やその動きを探究しようとすることには「遅さ」を感じました。

 

 

臨床は生身の人間を相手にするので、人間を通して世相だったり自然のリズムだったりを把握することができます。

 

 

今はたまたま臨床を通じて探究をしていますが、「人のためになりたい、世のためになりたい」というよりも「色々知りたい」という欲求の方が明らかに強いので、より探究心を満たしてくれるものがあるなら、そっちに移行することもあるでしょう。

自己修復力

施術を受けに来る方のからだを変えていく主体というのは施術者ではなく、受け手の中に元々ある自己修復能力です。

 

施術者がやることというのは、その本来持っている自己修復能力を邪魔せず、適切な刺激で助長するということで、「治してあげる」「よくしてあげる」という意識自体が既に過度な干渉になります。

 

「痛みをとる」ということを売り文句にしている所もありますが、一方的に痛みをとることでバランスを大きく崩してしまうことがあります。

 

脳神経学でわかっていることは、痛みはからだが下手に動かないようにするための防衛システム、アラームだからです。

 

痛みがとれたと喜んで動き過ぎてしまい捻挫した。

 

なんていうこともあるくらい、痛みが強かった人のからだは痛みのないからだに馴染むには時間がかかります。

 

「どんな痛みでもとります」

 

という看板を出しやっている所あったらちょっと危ないかもしれません。

 

痛みに執着してやると、施術する側がしんどくなるというのもありますね。

奇跡を日常的に起こすならそれは奇跡ではなくなる

キプロスのダスカロスやシュリア・サイババ(初代サイババ)、ブルーノ・グルーニングといった方々は、施術テクニックを持たずに奇跡的な治癒を起こしてきたといいます。

 

 

日本では玉光神社の本山キヌエが、盲目の方をその場で見えるようにしたという記録も残っています。

 

 

この方々は、自然の持つ創造的なエネルギーを利用して治癒を行っていたんだと思いますが、特に変化の大きかった方が奇跡的事例として取り上げられてきたんでしょう。

 

 

こういった方々でなくても、よっぽど術者と被術者の相性が良かったり、周波数が同調しやすい場合に奇跡的な治癒が起こりやすいと思っています。うちに来る方でも、かなり時間がかかるだろうなというような方の状態が2,3回でがらっと変化するということがありますが、これはテクニック以前に双方の繋がりがとりやすいためだとみています。

 

 

テクニック以前の領域、自分の意識の力やエネルギー循環を超人的なものにしていれば、1つ2つの方法で心身に解放を起こすことができるでしょう。

 

 

逆に、色んなテクニックを修得してもこれらが常人並みだったり常人以下の場合にはあまり役に立たないかもしれません。

 

 

個人的にやっている日常的な鍛錬法は、陳式の纏糸功や8キロの角棒を振ることですが、これも毎日やっていくと施術していて組織を解放する力の違いに気付くでしょう。

 

 

 

 

生まれたからには、プレイするしかない?

哲学というものは言葉の世界で問題を作り、言葉の中で探求するものです。なので、言葉が手がかりで、道具として信じて使うということが全てです。

 

哲学は私的な営みであってはならないので、常に普遍化の誤魔化しが入り込みます。ルールが普遍的出ないなら、それは全く意味のない言葉になりますから。

 

例えば、デカルトは「我思う」(ego cogito)から探求を始めますが、その「我思う」を知らないうちに誰にでも当てはまる普遍的なものとして使います。

 

別に一般的な「我思う」ではなく、それが思うとか誰かが思うから出発しても良かったわけですが、「学問として成立するには普遍的でなければならない」ということで、一般的な「我思う」から始めるわけです。

 

そして、「我思う」からなぜか「我在り」を導きだします。

 

でも、何度「我思う」、考えることをしても、考える自分を確認することしかできず、そこからどうやっても「我在り」が導き出されることはありません。

 

このように、近代哲学をスタートさせたというデカルトの論理ですらかなり飛躍があり、直観的?で、事象を捉えるということはできません。

 

ぼくは、哲学というのは面白いなと思いましたが、一生これだという手応えに全く至ることがないんだろうなと感じました。

 

どちらかというと言葉から溢れ出てしまう豊富なものをもっと追いかけたいと思いました。

 

自分の研究テーマと関係なく、現存在(人間)の謎を肉薄にすると言われたハイデガーの『存在と時間』を大学院に入ってちゃんと読んだことがありますが、こんな類を一生読むくらいなら神秘主義や仏教書を読んだ方がマシだと感じて、きっぱり辞めてインドをぶらぶら、中国でぼーっとしました。

 

臨床の世界に入って、言葉で事象を捉えられないというフラストレーションはありません。

 

言葉以前の領域で色々感じていて、それはそんなに言葉にする必要もないかなという感じになりました。

 

「行為すると同時に我れが措定される」

 

というところでしょうか。でもこれはフィヒテでした。

 

優れた臨床家の言葉というのは有名な哲学者より迫っていると感じます。