仕事と好奇心

ここのところ仕事を辞めたという人が多いです。何かを辞めたり、関係を変えたりする時期みたいですね。

 

 

やりたくない仕事をやり続けるというのは拷問に近く、より生きがいを感じる仕事を探すということは自然な欲求だと思いますが、中々自分に合った仕事が見つからないという人が多いです。

 

ぼくがこの仕事を選ぶとき基準にしたのは、

①日本に限らずどこでもできる

②外的環境にあまり左右されない

③震災など非常時でもできること

④どの時代でもあった仕事

 

これでした。手技の歴史は古く、どんな文明でもどの時代でもやってきたことで、これほど普遍的な仕事というのはあとは料理人、産婆、医者、売春あたりが筆頭でしょうか。

 

 

本当に極限の状況、震災で東京が瓦礫に化したり、仮に日本が無くなっても、手技や療法を身に付けていればどこでもやっていけるし、昔の武術家みたいに施術した代わりに寝る場所と食べる物を貰うということもできます。

 

 

普段施術していても、そうなるイメージはいつも頭の片隅にあります。この仕事をしていてこの先も日本に留まり続けるということが不自然だとすら思うこともあります。

 

 

就活すらしたことがないぼくがいうのも変ですが(唯一積極的にやった仕事は身体の使い方の参考になった引っ越しや倉庫の仕事でした)、自分にあった仕事が見つからないというのは、自分がどんな特性を持っているか明確に把握していない、自分に合った情報を捉えるアンテナが弱い、探究することがはっきりしていない、など色々言うことができるかもしれません。

 

 

自分自身この仕事を見つけたのは運が良かったんだと感じているので、全てはタイミングと運だという話になりそうです。

 

 

一方で、今までしてきたこと、関心などから考えると、必然的な流れも感じます。

 

 

探究ということに絞ってみていくと、人間が何故生まれてくるかと考えると誰も検証できないし答えは出ないと思いますが、生物は遺伝子が獲得した情報を次の世代に伝えていくということがあります。

 

 

人間は生まれながらに好奇心旺盛で、探究したいという欲求は根源的なものだと思います。

 

 

だから、何を探究したいのかはっきりすれば、探究する為の媒体は定まってくるはずです。

 

 

どんな仕事でも、それによって何がしかの探究ができていればいいと思います。

 

 

ぼくは臨床を介して自然法則と、それによる動きを探究していると思っています。

 

野口晴哉は、自然法則を知るために株をやり、一通り儲かった後に「わかった」といってきっぱり止めたようです。

 

探究する媒体は変わっていってもいいと思います。

 

 

今は臨床を通して自然の探究をしていますが、前は神秘思想や宗教を参考にしていました。

 

 

文字言語で自然法則やその動きを探究しようとすることには「遅さ」を感じました。

 

 

臨床は生身の人間を相手にするので、人間を通して世相だったり自然のリズムだったりを把握することができます。

 

 

今はたまたま臨床を通じて探究をしていますが、「人のためになりたい、世のためになりたい」というよりも「色々知りたい」という欲求の方が明らかに強いので、より探究心を満たしてくれるものがあるなら、そっちに移行することもあるでしょう。