生まれたからには、プレイするしかない?

哲学というものは言葉の世界で問題を作り、言葉の中で探求するものです。なので、言葉が手がかりで、道具として信じて使うということが全てです。

 

哲学は私的な営みであってはならないので、常に普遍化の誤魔化しが入り込みます。ルールが普遍的出ないなら、それは全く意味のない言葉になりますから。

 

例えば、デカルトは「我思う」(ego cogito)から探求を始めますが、その「我思う」を知らないうちに誰にでも当てはまる普遍的なものとして使います。

 

別に一般的な「我思う」ではなく、それが思うとか誰かが思うから出発しても良かったわけですが、「学問として成立するには普遍的でなければならない」ということで、一般的な「我思う」から始めるわけです。

 

そして、「我思う」からなぜか「我在り」を導きだします。

 

でも、何度「我思う」、考えることをしても、考える自分を確認することしかできず、そこからどうやっても「我在り」が導き出されることはありません。

 

このように、近代哲学をスタートさせたというデカルトの論理ですらかなり飛躍があり、直観的?で、事象を捉えるということはできません。

 

ぼくは、哲学というのは面白いなと思いましたが、一生これだという手応えに全く至ることがないんだろうなと感じました。

 

どちらかというと言葉から溢れ出てしまう豊富なものをもっと追いかけたいと思いました。

 

自分の研究テーマと関係なく、現存在(人間)の謎を肉薄にすると言われたハイデガーの『存在と時間』を大学院に入ってちゃんと読んだことがありますが、こんな類を一生読むくらいなら神秘主義や仏教書を読んだ方がマシだと感じて、きっぱり辞めてインドをぶらぶら、中国でぼーっとしました。

 

臨床の世界に入って、言葉で事象を捉えられないというフラストレーションはありません。

 

言葉以前の領域で色々感じていて、それはそんなに言葉にする必要もないかなという感じになりました。

 

「行為すると同時に我れが措定される」

 

というところでしょうか。でもこれはフィヒテでした。

 

優れた臨床家の言葉というのは有名な哲学者より迫っていると感じます。