勁(連動力)と軸

先日、ちょっとした健康法?の会をやりましたが、反応がよかったのと、定期的にやった方が身に付く内容なので、また近々やろうと思います。

 

 

先日は勁ということと体軸ということでやりました。

 

 

ぼく自身、まだまだ探究しがいのある分野ですが、勁や体軸の感覚はそのまま臨床に活用されている感覚です。

 

 

勁は、身体を連動して発せられる力で、武術ではこの感覚を掴むためにひたすら基本功法をやります。

 

 

スノボーのインストラクターをやっていたN君は、スノボーの練習で似たようなことをやると言っていました。

 

 

中国武術では特に大腰筋が重視されていて、これは大腰筋と言われる前から直観的に感じられてきたものだと思います。

 

 

気功では大腰筋に沿って大きい気道、気の通り道があるとしていて、大腰筋は仙骨、下丹田とも直接関係します。

 

 

太極拳の師匠は、仙骨が動くようになると色んなことができるようになると言っていました。

 

 

中国の仙人は、仙人候補を選ぶときに骨格のある場所を見て選ぶということですが、これは仙骨ではないかと言われています。仙骨自体、英語ではラテン語のsacramからきているので、「聖なる」骨という意味です。

 

 

太極拳の師匠は、金的が効かなかったり身体中ハンマーで叩かれても平気だったりしますが、全身連動して勁が通った後、衛気が流れるようになり、筋肉がゴムのようになるようです。

 

 

太極拳では最初大きく動き、小さい動きになっていくんですが、これは最初大きく動かして勁の感覚を掴み、小さく動かしても勁の感覚が掴めるように練習していくということのようです。

 

 

勁の感覚は武術を始めた当初は全くわかりませんでしたが、しばらくして何となく感じるようになり、それから基本功が面白くなりました。臨床では、受け手の身体と自分の身体を繋ぐという感覚、受け手の身体を連動でみていくことに役立っています。

 

 

軸の感覚も基本功で掴んでいきますが、施術していて軸の感覚は重要で、軸が弱いと、受け手の歪みに持っていかれたり、リリースに時間がかかったりします。

 

軸の感覚があれば、人に影響されることを回避できたり、程よい間合いを図ることができたりします。

 

 

これらは一生探究できる感覚です。ぼくもまだまだ磨いていきたい感覚ですね!

 

仕事と好奇心

ここのところ仕事を辞めたという人が多いです。何かを辞めたり、関係を変えたりする時期みたいですね。

 

 

やりたくない仕事をやり続けるというのは拷問に近く、より生きがいを感じる仕事を探すということは自然な欲求だと思いますが、中々自分に合った仕事が見つからないという人が多いです。

 

ぼくがこの仕事を選ぶとき基準にしたのは、

①日本に限らずどこでもできる

②外的環境にあまり左右されない

③震災など非常時でもできること

④どの時代でもあった仕事

 

これでした。手技の歴史は古く、どんな文明でもどの時代でもやってきたことで、これほど普遍的な仕事というのはあとは料理人、産婆、医者、売春あたりが筆頭でしょうか。

 

 

本当に極限の状況、震災で東京が瓦礫に化したり、仮に日本が無くなっても、手技や療法を身に付けていればどこでもやっていけるし、昔の武術家みたいに施術した代わりに寝る場所と食べる物を貰うということもできます。

 

 

普段施術していても、そうなるイメージはいつも頭の片隅にあります。この仕事をしていてこの先も日本に留まり続けるということが不自然だとすら思うこともあります。

 

 

就活すらしたことがないぼくがいうのも変ですが(唯一積極的にやった仕事は身体の使い方の参考になった引っ越しや倉庫の仕事でした)、自分にあった仕事が見つからないというのは、自分がどんな特性を持っているか明確に把握していない、自分に合った情報を捉えるアンテナが弱い、探究することがはっきりしていない、など色々言うことができるかもしれません。

 

 

自分自身この仕事を見つけたのは運が良かったんだと感じているので、全てはタイミングと運だという話になりそうです。

 

 

一方で、今までしてきたこと、関心などから考えると、必然的な流れも感じます。

 

 

探究ということに絞ってみていくと、人間が何故生まれてくるかと考えると誰も検証できないし答えは出ないと思いますが、生物は遺伝子が獲得した情報を次の世代に伝えていくということがあります。

 

 

人間は生まれながらに好奇心旺盛で、探究したいという欲求は根源的なものだと思います。

 

 

だから、何を探究したいのかはっきりすれば、探究する為の媒体は定まってくるはずです。

 

 

どんな仕事でも、それによって何がしかの探究ができていればいいと思います。

 

 

ぼくは臨床を介して自然法則と、それによる動きを探究していると思っています。

 

野口晴哉は、自然法則を知るために株をやり、一通り儲かった後に「わかった」といってきっぱり止めたようです。

 

探究する媒体は変わっていってもいいと思います。

 

 

今は臨床を通して自然の探究をしていますが、前は神秘思想や宗教を参考にしていました。

 

 

文字言語で自然法則やその動きを探究しようとすることには「遅さ」を感じました。

 

 

臨床は生身の人間を相手にするので、人間を通して世相だったり自然のリズムだったりを把握することができます。

 

 

今はたまたま臨床を通じて探究をしていますが、「人のためになりたい、世のためになりたい」というよりも「色々知りたい」という欲求の方が明らかに強いので、より探究心を満たしてくれるものがあるなら、そっちに移行することもあるでしょう。

自己修復力

施術を受けに来る方のからだを変えていく主体というのは施術者ではなく、受け手の中に元々ある自己修復能力です。

 

施術者がやることというのは、その本来持っている自己修復能力を邪魔せず、適切な刺激で助長するということで、「治してあげる」「よくしてあげる」という意識自体が既に過度な干渉になります。

 

「痛みをとる」ということを売り文句にしている所もありますが、一方的に痛みをとることでバランスを大きく崩してしまうことがあります。

 

脳神経学でわかっていることは、痛みはからだが下手に動かないようにするための防衛システム、アラームだからです。

 

痛みがとれたと喜んで動き過ぎてしまい捻挫した。

 

なんていうこともあるくらい、痛みが強かった人のからだは痛みのないからだに馴染むには時間がかかります。

 

「どんな痛みでもとります」

 

という看板を出しやっている所あったらちょっと危ないかもしれません。

 

痛みに執着してやると、施術する側がしんどくなるというのもありますね。

奇跡を日常的に起こすならそれは奇跡ではなくなる

キプロスのダスカロスやシュリア・サイババ(初代サイババ)、ブルーノ・グルーニングといった方々は、施術テクニックを持たずに奇跡的な治癒を起こしてきたといいます。

 

 

日本では玉光神社の本山キヌエが、盲目の方をその場で見えるようにしたという記録も残っています。

 

 

この方々は、自然の持つ創造的なエネルギーを利用して治癒を行っていたんだと思いますが、特に変化の大きかった方が奇跡的事例として取り上げられてきたんでしょう。

 

 

こういった方々でなくても、よっぽど術者と被術者の相性が良かったり、周波数が同調しやすい場合に奇跡的な治癒が起こりやすいと思っています。うちに来る方でも、かなり時間がかかるだろうなというような方の状態が2,3回でがらっと変化するということがありますが、これはテクニック以前に双方の繋がりがとりやすいためだとみています。

 

 

テクニック以前の領域、自分の意識の力やエネルギー循環を超人的なものにしていれば、1つ2つの方法で心身に解放を起こすことができるでしょう。

 

 

逆に、色んなテクニックを修得してもこれらが常人並みだったり常人以下の場合にはあまり役に立たないかもしれません。

 

 

個人的にやっている日常的な鍛錬法は、陳式の纏糸功や8キロの角棒を振ることですが、これも毎日やっていくと施術していて組織を解放する力の違いに気付くでしょう。

 

 

 

 

生まれたからには、プレイするしかない?

哲学というものは言葉の世界で問題を作り、言葉の中で探求するものです。なので、言葉が手がかりで、道具として信じて使うということが全てです。

 

哲学は私的な営みであってはならないので、常に普遍化の誤魔化しが入り込みます。ルールが普遍的出ないなら、それは全く意味のない言葉になりますから。

 

例えば、デカルトは「我思う」(ego cogito)から探求を始めますが、その「我思う」を知らないうちに誰にでも当てはまる普遍的なものとして使います。

 

別に一般的な「我思う」ではなく、それが思うとか誰かが思うから出発しても良かったわけですが、「学問として成立するには普遍的でなければならない」ということで、一般的な「我思う」から始めるわけです。

 

そして、「我思う」からなぜか「我在り」を導きだします。

 

でも、何度「我思う」、考えることをしても、考える自分を確認することしかできず、そこからどうやっても「我在り」が導き出されることはありません。

 

このように、近代哲学をスタートさせたというデカルトの論理ですらかなり飛躍があり、直観的?で、事象を捉えるということはできません。

 

ぼくは、哲学というのは面白いなと思いましたが、一生これだという手応えに全く至ることがないんだろうなと感じました。

 

どちらかというと言葉から溢れ出てしまう豊富なものをもっと追いかけたいと思いました。

 

自分の研究テーマと関係なく、現存在(人間)の謎を肉薄にすると言われたハイデガーの『存在と時間』を大学院に入ってちゃんと読んだことがありますが、こんな類を一生読むくらいなら神秘主義や仏教書を読んだ方がマシだと感じて、きっぱり辞めてインドをぶらぶら、中国でぼーっとしました。

 

臨床の世界に入って、言葉で事象を捉えられないというフラストレーションはありません。

 

言葉以前の領域で色々感じていて、それはそんなに言葉にする必要もないかなという感じになりました。

 

「行為すると同時に我れが措定される」

 

というところでしょうか。でもこれはフィヒテでした。

 

優れた臨床家の言葉というのは有名な哲学者より迫っていると感じます。

 

天然、自然は安全?

肉の生食は中々怖いものがあります。

 

ぼくは、数年前にギランバレー症候群になった先生を施術しに病院に通ったりしましたが(最初眼しか動きませんでしたが、ご自身で頑張り奇跡的に3ヶ月で立ち上がれるようになり、医者や看護婦から奇跡だと言われていました)、ギランバレー症候群は主に鳥の生肉を食べることで体内に入る「カンピロバクター」という細菌が神経の軸索や髄鞘に侵入することで罹患します。

 

生肉は、「新鮮だから」最近がいないというわけではなく、ほとんどの生肉に細菌が存在します。

 

特に、身体が弱っている方、高齢者に生食は恐いです。

 

ぼくも、身体の疲れている時は刺身などは選択に上りません。

 

ぼくが過去に3、4回みた方で、全身転移した癌が落ち着いて来た頃、旅行先で生サーモンを食べて一気に体調を崩し、そのまま数ヶ月でお亡くなりになった方がいました。

 

 

牛に由来する腸管出血性大腸菌は、牛の3割ほどが保有し、数個でも口にすると食中毒が発症する可能性があるというものです。

 

腸に達し増殖し、腹痛や血便、ひどいと脳症や尿毒症になり、人工透析が必要になる場合もあるというものです。

 

 

焼肉屋は「新鮮だから」というかもしれませんが、新鮮かどうかはあまり関係なありません。

 

生食による被害は、死者が出ると報道されますが、正確な被害者数は把握されてないようです。

 

 

去年の肉フェスでも「新鮮な」生の鶏肉で食中毒が多数出たようですが、その中にはもしかしたらギランバレー症候群になった方もいたかもしれません。

究極のものはシンプル

あらゆることに該当すると思いますが、例えば私立大学の問題になると教科書でやらないようなマニアックな問題が出たりします。でも、基本的な問題ができていれば点数としては及第点がもらえます。

 

木を見て森を見ず、逆に森を見て木を見ずもありますが、施術でも、誰も問題にしないような細かい解剖学や生理学にのめり込んでいくと、ある一定以上で頭打ちになります。

 

頭打ちになりはじめた時に上手く転換したり飛躍できればいいですが、そのままのめり込んでいくと必要以上に自分を消耗するやり方になったり、施術自体効果が上手く出なくなったりします。

 

調子がいつもと違う時に限って、普段来ないようなタイプの方が新規できます。そして、いつもやっている方法が上手く反応しなかったりして、いつもと違うやり方を思いついたりします。

 

そんな時に大体思うのが、小さい所にこだわっていたかなということです。

 

ある方法で成果が上がっていると、その方法で大体いけると思うんですが、そのうちその方法が通じないケースが出てきます。

 

ぼくの場合は、そうやって色んなやり方を使ってきたというのもありますが、それでもやっていて、これは何か違うなというケースもあります。

 

基本的に、原因を見極めて何らかの刺激を加えるということをしますが、何か違うなという時は、施術以前の問題が絡んでいることもあります。

 

寝ていない、冷たいものばかり飲んでいる、食べているものが悪すぎるなど。

 

いくら施術のやり方を工夫しても、こればかりは施術の範囲外になりますね。

 

エネルギー、波動を超えて

「エネルギー」「波動」といった単語を施術で使う場合、まだまだ神秘的な響きがあり、人によっては怪しいと思うでしょう。

 

それに、施術の世界でそういった単語を使う人は意外に多いので、もっと独創的な響きを持つ単語はないかなとずっと考えています。

 

そういった中で、ピンと来るものがあったのが「カナカムナ」で、カタカムナとは直接関係のないkan.氏の本を数年前読んで、その副題にあった「潜象界」という単語にずっと何となく気になっていました。

 

エネルギー、波動を操作せず潜象界から変化させると言うことを試行錯誤していましたが、潜象界と言うのは誤解を恐れずに言うと、「現象を生じさせ、背後で潜在的に働き続ける世界」と言うような意味だと思っています。

 

 

西洋哲学の文脈で言われるイデア界よりも、背後で働き続けるというニュアンスが強いと思います。

 

 

この潜象界と言う単語は、カタカムナを発見した物理学者楢崎皐月氏の造語です。

 

 

例えば、「今」という言葉は使われる場面によってはイベントとしての時間だったり、意識にのぼった幅を持った時間だったりしますが、「今」という言葉で点的な瞬間的時間を対象として指し示そうとしても、瞬間的時間を捉えることができません。

 

また、マッチを擦って着火する瞬間の、マッチを擦るエネルギーが炎としてエネルギーの変換するその瞬間的場面を捉えるということは、まだ科学でもできていなかったと思います。

 

 

また、花が開花する際、拡がっていく力に対して必ず抵抗する力、縮んでいく際にそれに抗う力が働いていますが、それを計測することはできていません。

 

 

これらは、現象が現れ出る以前の段階として、科学では対象化されていない領域です。

 

 

こういった事象を考える時、想定せざるを得ないのが潜象界だということです。

 

 

今日は鍼灸師の高橋先生に教えて頂き、カタカムナの講習会に行ってきました。

 

 

何冊か出ているカタカムナの本を読んで、この解釈は本当かな?というのが結構あったんですが、カタカムナは神秘主義ではないし言霊ではない!という、相似象から継承された考えを全面に出されていて、カタカムナとは何をするものなのかということが具体的に腑に落ちてよかったです。

 

 

相似象を読んでいく手引きになりそうです。

 

 

ここ最近は、施術に使うというよりは、純粋に紀記以前の日本とはどんなものか、縄文以前の古代人の直感力はどういったものかという関心から気になっているカタカムナですが、波動やエネルギーといった単語を使わずにやれるきっかけが何かあればいいなと思っています。

 

某○○線のような、、、

 

 

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感情というものの威力

ネガティヴな強い感情がある場合、それを解放しなければ肉体を30分40分調整した労力が水泡に帰すことがあります。

 

これは感情だけでなく、身体に強い制限を作る要因がある場合、それを取り除かなければ一瞬ではないにしても、家に帰ったら施術前の状態に元通りということがあります。

 

 

強い怒り、後悔、嫉妬などは、その人を取り巻く現状を変えることと一緒に取り除く必要があったりします。

 

そういった場合は、感情を取り除いてもまたすぐ感情が供給されて来るので、施術の労力が無駄になります。

 

そこまでやろうとする術者はそもそも少ないと思いますが(無意識にやっている人はいるかもしれません)、そこまでやらなければ身体が変化しないという方はいますし、そこまで誘導することができたら本当に身体が変化すると多います。

 

 

そんなことを考えると、一生懸命骨格や内臓を調整して時代が無駄に思えたりしますが、そういった過程を踏まなければ逆にそもそも気付かないことかもしれません。

 

 

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冷たいものの怖さ

最近暑くなって来ましたが、冷たいものの取りすぎに注意です。

 

冷たいものも取りすぎで腸が過敏になる方や、冷たいものに弱い腎臓に由来した腰痛や股関節痛で来る方が増えます。

 

隔週で来る方で、朝起きると腰が固まっているというしつこい腰痛の方がいましたが、毎日風呂上がりに食べるアイスクリームが原因でした。

 

別の方で同じような症状の方は、冷えに弱い体質にも関わらず毎晩氷のたっぷり入ったウイスキーや焼酎が原因でした。

 

お二人ともその習慣を止めてもらうことにしたら腰痛は自然になくなりました。

 

神経が過敏になりすぎた状態は、まず神経がしっかり反応するまでに時間がかかったり、施術の効きが悪かったりするので、施術が無駄になったりします。

 

冷えが万病の元と信じる中国では、夏でも冷たいものをとることをしません。

 

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