シチリア島には沢山教会があります。
聖書の世界では、エデンの追放がありますが、世界各地に人類が神や天界と分離されたという話が残っています。
ぼくは、これは人類が本来持っていた神的なもの、超感覚的なものが封印されるようになったことの比喩ではないかと考えています。
今いる、シチリア島のシラクーザ(siracuza)は、アルキメデスの故郷として有名です。
アルキメデスは、風呂に入っている時、自分の身体によって風呂の水位が上がることに気付き、偽金を見分けることができることを発見しました(この時アルキメデスはエウレカと叫び、素っ裸で町中走ったと言います)。
この逸話は、日常的なものに対して意識のフォーカスが高まった状態が、風呂に入りリラックスすることで緩み、閃きが生じる(エウレカ)という話でよく引き合いに出されます。
普段、意識は仕事を中心にフォーカスを当てて生活していますが、数日仕事から離れると、普段キャッチしていなかった情報が入り始めます。
意識は、ある対象に対する強度が上げると、それに関係する情報以外はシャットアウトさします。普段、ある対象に対するフォーカスが強ければ強いほど、その反作用が生じるという風にも言えるかもしれません。
人類が元々持っていた感覚というのは、二項対立の存在しない螺旋的なものだったと思われます。スタートとゴールを決め、そのタイムを競うというのはかなり直線的な感覚だと思いますが、紀元後の人類が持つ感覚はこういったものでしょう。
どこどこに行きたいとか、こういう物を見たいというのも紀元後的な感覚で、何も見ることも、感じることもできなくなった人は、他人と目に見える共通の指標を必要とするようになりました。明日どこで誰々と会うとか、どこで何を食べるとか、人類は元々そういった意識を持っていなかったんじゃないかと思います。
目的を決めずにひたすら歩くと生じる感覚というのは、フィジカルな感覚を離れて螺旋的な意識にしばし帰還させてくれます。ここに散歩の秘伝が隠れていると思います。
螺旋的な意識は、「私はこうしたい、私はこうなりたい」という紀元後的意識よりも広範な意識で、「フィールド感覚」とでも呼べるものです。
フィールドは肉体の感覚が捉え逃している情報をキャッチしていますが、それは光速を超えるため、肉体感覚に慣れきった意識には上がらないものと思われます。不思議な体験を科学的な世界で説明することが困難なのは、科学は光より速いものを対象にしていないためです。カタカムナでは、潜象のものは速くて人間の知覚できないものだと言いますが、フィールド感覚が捉えるものは本来こういったものでしょう。
人類の感覚は、肉体の感覚の半分以上を本来はこのフィールド感覚が補完するものと考えています。
このフィールド感覚は、拡散した意識状態で鍛えられるものだと思います。
太極拳やスーフィズムのようなダンス、施術方法であればバイオダイナミクスのように、拡散した意識を使うものはこのフィールド感覚を強化し、「私」にべったり張り付いた意識をぼかしてくれる働きをしてくれるでしょう。
紀元後の人類は、例えば「あそこには公園を造ろう」といった欲求は自分の意志から生じたものと考えますが、「フィールド感覚」がある人は、この欲求がこの「私」よりもっと広いフィールドが受け取ったものだと感じる選択肢が出てきます。
エデンの追放に代表される、人間の堕落というのは、このフィールド感覚を失ったことを意味していると思います。
この感覚を失うことで、固定した直線的な陰と陽の世界に堕し、美しさにこだわる人は美しさと醜さの中で葛藤し、お金が欲しい人は豊かさに憧れて貧しさを恐るようになったんでしょう。
フィールド感覚は、自然の中、宇宙の秩序の中で自分はどんなポジションを占めるのかということをわからせるものなので、この感覚があれば自分をこういった価値の世界で判断する必要は無くなります。
フィールド感覚が乏しい人は、肉体の感覚だけで生きているので、フィールドの持つ無限、非限定、多様性に開かれた感覚が弱いために、より大きい力をうまく受け取ることができないでしょう。逆に、フィールド感覚が強い人が側にいれば、フィールド感覚が付くことがあります。誰かと会った後、運が良くなった、いい話が来た、面白い出会いがあったということを経験したことがあると思います。
紀元後の固定的で直線的な感覚というのも、人類のサイクルの中で必然的に通過していくものなのでしょうが、ここ数年確実に自分の周りでも螺旋的感覚、フィールド感覚を持った人は増えていると感じます。