宗教に関係してきた人というのは、全員がそうではないでしょうが、構造上権威に弱いことが多いと感じます。
宗教は、自分より大なるものに無防備に自分を委ねるということをするので、習性として身に付いてしまいます。
あらゆる宗教は、教祖、創始者の体験や教えを人生の規範にしますが、教祖の体験を直接追体験するということが究極だと思います。そうなればそれは教祖を越えようという行為なので、それで新しい宗教を作った人もいますし、賢明な人は宗教を作らずに更に体験を深めようとします。
宗教というのは創始者の抜け殻でしかないですから、本来は宗教など作らずに終わりなき体験を追究するというのが宗教人だと思っています。
教祖や創始者を偶像としてして崇める人間は何も作り出せず、追従に終始し、教祖がどれだけ凄いか語る畜群として人生を終わらせます。
現代における宗教的人間の構造は、
「あの人は~で活躍してきて、~と~に支持されていて、~人のフォロワーがいて、IQが~で、すごいんですよ。あの人に付いていくべきです」
と本気で言います。
こういったタイプの宗教人に会うと、まだまだオウム真理教のような存在は需要の余地があるぞ、と思ってしまします。需要は無くならないでしょう。
信仰の人たちに、教祖と同じ体験を追究してみないのか?と聞いたことがあります。
恐れ多くてそんなことはできないと言うんですね。完全に思考停止の状態です。
本当に教祖の体験、教えを尊重しようと思っているなら、教祖の感じたこと、教祖が追い求めていたことが何だったのか追求しようとするものだと思うんですが、それをしない信者と言うのはアイドルにキャーキャー群がるファンと同じです。
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