スピリチュアル系の言説では「「現実世界」「幻想世界」「三次元」などという言い方があり、「三次元」はこの現実世界(あるいはこの幻想世界)を指す場合が多いようです。
これらの言説で注意しなければならないのは、「幻想だと気付いている自分は他より優れている」というように認識し、現実世界の点数や偏差値のような優劣を付けることに陥ってしまうことです。これは、「幻想だと気付いている」ことにはならなくなります。何故ならこの言葉が指す「幻想」の中で機能している物事の優劣を持ち込んでいるからです。
「気付き」ということがその気付きの対象に関して、自由の間隙を作るものならばそう言えると思います。
そういった意味で、色々なものを数値化する傾向にある「スピリチュアル」な言説があるとしたら、それはスピリチュアル的ではなくかなり「現実的」な考えです。
スピリチュアル系や求道的なことが好きな人でも、ほとんどがこの事態に陥りやすいと感じます。
インド哲学の「究極」は、釈迦の時代でも神人合一「梵我一如」とされてきましたが、それは神と合一した陶酔状態を至高とするもので、経験するのはいいと思いますが、これも「幻想世界」で催眠状態になることと変わりません。
インドの伝統的修行の多くが、神との合一による陶酔状態を目的にし、それに疑問を持つ何人かが「それは至高ではない」と看破しています。
全てが生じる、現象の手前の世界は「沈黙」のみがあるようです。「沈黙」に到りその波動を感じるだけにし、陶酔を止めよと説いたインド聖者がいました。
沈黙に身を置くことで、そこから全てが生じる瞬間を視ることができるのではないかと思っています。
世界を多次元的に階層分けするとして、「三次元」より「四次元」が優れているわけではなく、「四次元」より「五次元」が洗練されているわけでもないでしょう。
それぞれの世界でしっかり経験することがあるから、そこに存在していると思います。
今存在している次元をしっかり経験しきることができなければ、違う次元に存在しても経験しきることは出来ないはずです。
より高いエネルギーを求める人たちも、ブランド品の代わりにエネルギーを求めることにしただけで、構造が変わっていません。霊能力や特殊能力を崇めるのも、偏差値教育と変わりがなく「現実世界」の構造から抜け出していないと言えるでしょう。
生まれてから染み付いた「社会性」に目を向けると、自分の矛盾に気付くことがあると思います。
「普段の自分を出したら社会では通じない」「自分のペースで動いたら会社ではやっていけない」
こういった問いが出た時、本当にそれは問題になるのか問いかけてみるといいでしょう。
そして、無駄を削ぎ落としていくことで循環が変わり、人間関係や物の巡りも変わり、自分の意識がフォーカスしている次元をしっかり生きることができると思います。